▼『マシニスト』不安の孤独

"The Machinist"
Brad Anderson
USA(2004)
Official Web

 映画は冒頭で人をひきつけるためにあの手この手を使う。ハリウッドアクションムービーとかだと必ず冒頭にアクションシーンを持ってくるとか。タランティーノ監督は『レザボアドッグス』の冒頭でマドンナの”ライク・ア・ヴァージン"ついて一席打つという技で映画に引き込んだ。結末近くのシーンをはじめに持ってきて、その後すぐに過去に戻ってそこまでに至る経緯を本編で見せるというテクニックは良く使われる。『ファイトクラブ』なんかがそうだ。この『マシニスト』もそれと同じ。冒頭で主人公のトレバーは絨毯で人らしきものを巻いていてそれを川に捨てに行く。そんなシーンから始まる。しかしそんなものはその後にくる主人公の裸のシーンに比べたら取るに足らない。ガリガリに痩せこけた身体。特殊メイクやCGによる処理などではなく、クリスチャン・ベイルはこの役のために30キロもの減量をしたのだそう。脚本にはもともと"歩く骸骨のよう"と記されていたそうだがまさにその通り。この作り物でない異様な身体にまずクラクラしてしまう。陰影を強調させる照明が更に彼のガリガリさをうきだたせる。浮き出たアバラや背骨も凄いが、一番凄いのは目の下の窪みだ。あの頭蓋骨に大きく開いている目玉の入る穴。それが生きている人間の顔に常に浮き出ているかのような強烈さ。観客はもうこの痩せた身体の行く末を見ずにはいられなくなる。ものすごい掴みである。

 もう一つこの映画の見ものは遊園地にあるアトラクション”Root666"だ。この醜悪なアトラクションに子供と一緒に乗ってしまた事を考えると身震いがする。
マシニスト』は一年間眠らなかった男の物語。それゆえに身体がやせ細ってしまったのである。そしてあるとき彼の回りで不可解な出来事が起き始める。そんな不条理劇だ。だから以上はネタばれになるので以下は映画見たら読んでください。(下の四角内を選択して反転すれば読めます)

 映画は面白かったのだけど、感想は「また妄想の映画か!」だった。  結局彼の罪の意識による妄想、アイバンはトレバーの良心だった。トレバーはドストエフスキー罪と罰」のラスコーリニコフ。というオチは今となっては弱いかな、といった気がしないでもない。その手の映画は多いからだ。デビッド・リンチ監督の『ロスト・ハイウェイ』は男の嫉妬による妄想(たぶんですけど)、『マルホランド・ドライブ』女の嫉妬による妄想(たぶんですけど)。デヴィッド・フィンチャー監督の『ファイトクラブ』は現状を変えたい男の妄想、塚本晋也監督の『ヴィタール』はアイデンティティを再生させる為の妄想だった。しかしこうやって並べてみると全て私の好きな映画ばかりだ。だから「また妄想の映画か! でも好き」という感想に変更。

 DVDのコメンタリーで監督が言っているのだけど、マイクロスリープというのがあってトレバーはまったくの不眠ではなくてそれを行っているのである。

 マイクロスリープとは微小睡眠と言われているもので、睡眠が不足すると自分でも気づかない短い居眠りをしてしまうのである。普通睡眠はノンレム睡眠レム睡眠の繰り返しが行われる。ノンレム睡眠中に深い眠りに入り、レム睡眠中には浅い眠りに入る。このレム睡眠中に夢を見るのである。マイクロスリープはノンレム睡眠を飛ばしてすぐにレム睡眠に入ってしまう。浅い眠りである上に短時間な為、本人には眠っていたという自覚は起こらない。

 トレバーは本当に眠っていなかったわけでは無く、マイクロスリープを繰り返していた。この睡眠はレム睡眠であるために夢を見る。その夢が彼の良心の呵責によって作られたものであるのだけど、その夢と現実の間に境が無いのでトレバーにとっては全て現実の出来事として映るのだ。
 前半に彼がうつらうつらとして寝入りそうになり目を閉じるが、すぐにマリアやアイバンに声をかけられたりして目を開けるシーンがある。(空港のカフェでマリアが始めて出てくるのシーンや、'"白痴"を読んでいるシーン、アイバンにはじめて会うシーンなど)、これは全てマイクロスリープによって、現実と妄想が切り替わるシーンである。(目を閉じるまでが現実、開けてからが妄想)

 そして彼が全ての罪をさらけ出した時独房の中で目をつむる。彼の目は開かれない。本当の睡眠を得たわけだ。

 実際に世の中で、自分は不眠症だと悩んでいる人たちの睡眠時間や寝つくまでの時間を計ってみると、平均の睡眠時間とほとんど変わらないのだそうである。つまり不眠症の大半は(実際は充分な睡眠時間をとっているのに)眠れないと思い込んでしまう神経症的なものなのである。まったく眠れないと思い込んでいたトレバーの症状は不眠症をかかえる現代人の象徴でもあるのだ。

 人が罪の意識を覚えるのは、宗教的な理由が大きい。監督も脚本家もアメリカ人なのでキリスト教的な罪のイメージなのかと思うのだが、作中にはあまりキリスト教的なものは出てこない。彼が子供を轢いた事を思い出してくるのは、轢かれた子供を見て泣き叫ぶ母親と、自分の母親とのイメージが重なるからだ。だからあまり宗教的な罪のイメージにピンとこない日本人にとってはトレバーの心にのしかかる罪の意識はとても解りやすくて良い。

 しかし強引にキリスト教的なイメージを持ってくるとすれば、ミラーの引きちぎられた左腕が贖罪となってトレバーを救ったのか? (贖罪とはキリスト教用語。神の子キリストが十字架にかかって犠牲の死を遂げることによって、人類の罪を償い、救いをもたらしたという教義の事です)


 ウェイトレスのマリアは実際には轢かれた子供の母親のはずなのに妄想の中ではトレバーに対してとても好意的だ。トレバーを癒してくれもする。だから聖母の名前をしているのだろう。そう思うのだが、マリアは自分の罪の意識を癒してくれる存在に過ぎない。つまりマリアは自分の罪を覆い隠そうとしている存在、悪意の象徴なのである。奇形した指を持つ俗悪な風ぼうのアイバンが良心の象徴であって、聖母の名前を持つ美しい女性が悪意の象徴であるという設定が面白い。

 しかもマリアはトレバーに「孤独を恥じる事など無い」と彼の孤独さを慰めているのである。本編見終わってマリアが妄想だとわかると、これほど物悲しいシーンは無い。だって自分で自分の孤独を慰めているんでしょ。これこそ真の孤独だ。

 

DVD: マシニスト