『スニーカーハイ』Miruz

スニーカーハイ

Miruz
こんなところに靴屋があったっけ。
大学の帰り道、智弘は足を止めた。老舗という感じ。ちょっと古い靴屋があったからだ。何度も通った道だったのに今まで気がつかなかった。店を覗くと、小さな店内にはスニーカーが何足も並んでいた。智弘はスニーカー好きで、何足ものスニーカーを持っていた。若者の来そうにない店だから、掘り出し物があるかもしれない。そんな期待を込めて店に入った。
店に並んでいたスニーカーはどれも見たことの無いメーカーのものばかりだった。しかしディスカウントストアなどに並んでいる安い商品と違って、みんなシンプルなデザインや、シックな色の組み合わせのモノばかりで、どれも智弘好みばかりだった。試しに一足手にとってみた。作りもしっかりしていて、履きやすそうだ。
「ウチの靴はどれもワタシが特別に取り寄せたモノばかりだからね」
突然の声に顔をあげると、店の主人らしい老人がこちらに近づいてきた。靴屋の主人というよりは、骨董屋の主人といった感じだ。オリジナルブランドの商品ばかりなのか。だが値段もどれもそれ程高くないし、いい店を見つけたという感じだ。
その時、一足のスニーカーが智弘の目をとらえた。薄紅色でシンプルなデザインのそのスニーカーは、ジョギングシューズといった感じの軽い作りで、智弘は姉の履いていたシューズを思い出した。手に取ってみるとサイズもちょうど合いそうだ。
「すいません。これ履いてみてもいいですか」
「ああ、ドウゾ」
 片足を入れてみると、足にジャストフィットした。
「そのスニーカーはな、狭間の世界を見せてくれるスニーカーなのだよ」老人が言った。
「それを履いたときに、何か願い事を強く念じてみなさい」
ハザマノセカイ、ネガイゴト、何を言っているんだろう。
しかし智弘にはそんなことはどうでもよく、とにかくそのスニーカーを気に入ってしまった。購入して店を出ようとしたとき、店主がこう言った。
「そのスニーカーは癖になるから、程々にして方がイイですよ」
まただ、風変わりな店には、風変わりな店主ってとこなのだろう。そう思いながら智弘は店を後にした。


一人暮らしのアパートに帰るとすぐにトレーニングウェアに着替え、買ったばかりのスニーカーを履いて外に出た。日課になっている夕食前のジョギングに出るためだ。走りながら智弘はさっきの店主の言葉を思い出していた。
「確か願い事がなんたらとか言ってたっけ」
そんなことを信じていたわけでは無いが、ちょっとした神頼みのつもりで、智弘はある願いをかけてみた。いつも願っているけど、決してかなうことの無い願い。それは、姉さんにもう一度会うこと。


智弘は姉の速美が大好きだった。いつも速美は智弘に優しく、落ち込んだりしたときも、いつも力になってくれるいい姉だった。速美は大学のマラソン選手だった。凄い記録を残した選手というわけではなかったが、背が高くスラッとした速美の走る姿の颯爽とした美しさは、智弘の誇りだった。智弘がジョギングを日課にするようになったのも、そんな姉の影響だ。しかし、そんな大好きな姉も、三年前に急性の白血病によって亡くなってしまった。突然の死だった。いまだに智弘は、姉の死のショックから立ち直っているとは言い難かった。だからつい「願い事が……」などと言われると、姉さんの事を考えてしまう。
「姉さんに会いたい。たとえ無理だとしても」


智弘が走る時間帯はいつも夕暮れどき。夕日を眺めながら走るが好きだからだ。夕日はいつも姿を変える。色や雲の形、同じ夕日など一日もない。青かった空が徐々に色を変えて、雲が模様を造ってゆき、太陽の形も日によって変わり、そして闇になる。時間の流れというものが一番感じられる時。だから夕日が好きだった。もちろん夕日が見れない日もあるけれど、そんな日は早々にジョギングを切り上げた。ちょっと情けない話だけど、気分がのらないから。
今日の夕日は最高だ。青と紫とピンクとオレンジと赤が、絶妙の配色で、バランスよく形作られて、とても綺麗だ。
「この夕日を姉さんにも見せてやりたい」
そう思いながらのせいか、いつもより軽快に走っているような気がした。それとも靴のおかげか。その時、
──タッタッタッ
後ろから誰かが駈けてくる音が聞こえた。チラッと振り向いてみたが、誰も走っていているものなどいなかった。錯覚か、それ程気にもとめずにまた夕日を眺めながら走り続けていると、
──タッタッタッタッタッ
今度こそはっきり聞こえた。しかし周りをいくら見渡しても、人は見当たらない。せっかくのいい気分が台無しになったような気がして、その日は早めに切り上げて帰宅した。


しかし、その後も夕日が綺麗なときにはいつも、その走る足音が聞こえるようになった。その足音は徐々に長く、そしてはっきりと聞こえてくるようになったのだ。だが智弘はその足音に対して何か懐かしいものを感じるようになっていた。それはどこかで聞いたことのある音だったからだ。
それは、大好きだった姉の走る音。姉が元気よく走っていたころの足音にそっくりだった。いつしか彼の目的は、夕日を見ながら走ることだけでなく、足音と一緒に走ること。つまり姉と一緒に走っている気分になることも加わっていた。
夕日の見えている間などは、それ程長い時間ではないはずなのに、何故か足音が聞こえている間は、時間の流れが遅く感じられ、いつまでも長い間、夕日の中を走っているような気がした。どこを走ってきたのかよく分からなかったりすることが多く、気がつくと夜になっていて家に帰っている。かなり疲れているはずなのだが「夕日の中を姉と一緒に走ってている」と思うだけで智弘はうれしく、走るのが毎日楽しみでしかたがなかった。
ただ一つ不満だったのが、あのスニーカーを履いているときと、夕日が見えるときだけが、姉と一緒に走れるということだった。夕日が綺麗であれば綺麗であるほど、長く一緒に走っていられるような感じだった。


いつからか、大学にも行かないようになってしまった彼は、ゲッソリとやせ細ってしまった。ただ夕暮れのジョギングのみが、彼の生活のすべてになってしまっていた。かなりの疲労が身体に溜まっているにもかかわらず、長く走っていられたなと思えれば思えるほど、智弘の充実感は濃く、次第に走ることにはまっていった。


そんなある日、ふらつく身体を無理やりに起こして、薄紅色のスニーカーを履くと外に出た。その日の夕日は素晴らしかった。空の半分以上がオレンジがかった朱色一色に輝き、地上の物すべてが、その色に染められているようだった。シンプルで美しい。こんな凄い夕日は初めてだった。智弘は走り始めた。さっきまでふらついていたのがウソのように。
いつしか賑やかだった街並みも、廃虚の雰囲気につつまれ、そしてオレンジがかった朱色を染込ませていた。行き交う人達は皆動きを止め、色は蒼白い石のようになり、どこか夕日の色を拒んでいるかのよう。
──タッタッタッ
来た、姉さんがやってきた。智弘は足に力を込めた。その時、
──タッタッタッタッタッ
足音が智弘を追い抜いた。そこには、速美の走る姿があった。あの、スラッとした姿で颯爽と走る姉の姿が。
彼女は振り返って少し微笑んだ。 速美は、まるで身体から燐光を放ちながら走っているようで、とても美しく、華麗だった。
「待って、姉さん」智弘は追いつこうとスピードをあげた。
「このままずっと、ずっと一緒に走っていられるんだね」
いつの間にか、どこからか現われたらしい耳や指をとがらせて、口が耳まで裂けた、小さくて黒い連中が出てきて、僕たちを歓迎してくれているようだ。
僕はこの黄昏の微睡みの中を姉と供に永久に走り続ける。きっと、この夕日は終わることの無い紅蓮…
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2001/08/13初
2002/10/17改