『アンダーワールド』Miruz

アンダーワールド

Miruz
ひんやりとした地下の空気が胸をつきぬけた。
紺色のネクタイまで冷たくはりついているようだ。深夜の地下鉄のホームは不自然なくらい明るく、それが線路の先のトンネル内の闇をいっそう際だったものに感じさせた。
鉄郎は、衰えケガをした犬のよう足を引きずりながら、ホームの白線まで近づいた。今日もやっと一日の仕事が終わった。いつもの上司の嫌みと、八つ当りが頭の中で鳴り響く。
その時蛍光灯の一つがチカチカと瞬き始めた。寿命がきたのだろう。その瞬きが、また彼の疲労を強くした。
時計を見ると二十四時を指している。いつものあれがやって来る時刻だ。鉄郎がゴーストトレインと名付けているそれは、決まってこの駅のホームに二十四時に立っているとやって来る。ガタガタと電車のやって来る音が聞こえてきた。音が近づいてくるが、普段列車がやって来るよりもなかなか音が大きくならない、そう思っているうちに、音が目の前を通りすぎる。その瞬間フッと微かな風を身体に感じる、しかし列車は見えない。いつものパターンだ。ただ小さな列車の通過音と、風だけを感じるだけだった。
残業で帰宅が遅くなり二十四時にホームに立つと、必ずそのゴーストトレインはやって来るのだった。いまだに何なのかはわからなかった。いつもこの時間は、ホームにも人はほとんど居ないし、そのゴーストトレインに反応していると思われる人も皆無だった。
五分後に本物の列車がやって来て乗り込んだ。つり革につかまりながら、鉄郎はひとみの事を考えた。次の日曜には会えるのだろうか。


ひとみとはこの駅のホームで出会った。出会ったといっても正確に言えば再会だった。「鉄郎君じゃない」と、突然声をかけられた。ちょっと化粧の濃い派手な格好をした女だった。見覚えが無いのでキョトンとしていると、「高校で同じクラスだった、下村ひとみよ、覚えてないの」
驚いた。たしかに面影はあるけど、すっかり変わってしまっていたからだ。
「久しぶりね、卒業以来じゃない。すごく痩せたから、始めは違う人かと思ったけど、やっぱり鉄郎君ね」
足を引きずりながら彼女に近づいた。
「どうしたのその足」
「前の仕事で事故にあってそれ以来、まともに歩けなくなっちゃって」


その日以来、休日になると、ひとみに会うようになった。
「鉄郎君に彼女はいないの」
「いたことはいたけど、足を怪我してからだんだんと会わなくなっちゃって」
「ひどい話ね」
「しばらくして、会社がリストラをはじめて、僕も首になってしまった。ひとみちゃんは仕事何してるの」
「バーで働いてるの。水商売ってやつよ」
「たいへんそうだね」
「まあね。前はふつうのOLだったのだけど、上司のセクハラがひどくて辞めちゃった」
「僕の上司もひどいもんだよ。いつもガミガミとさ。自分がミスして怒られるなら納得いくけど、ただの憂さばらしと思えることが、ほとんどさ。それに自分のミスまで、僕のせいにしてくるんだ」
「そんな会社辞めちゃいなさいよ」
「辞めたいけど、足の悪い僕を雇ってくれるところなんて、そうは無いよ」
「田舎に帰ろうと思ったりしないの」
「僕の母さん、幼い頃に亡くなってるだろ。高校の時親父が再婚して、それ以来家にいづらくてさ、だから逃げるようにして、東京に出てきたから」
「あたしも、もう帰りたくはないわ、地獄のような家庭だったから」


ひとみにゴーストトレインの話をしたことがあった。
「なんか不気味な話だろ」
「そうかな、ロマンチックじゃない。いつかその電車が私を、夢のような、しあわせの世界へ連れていってくれるの」
そういうときのひとみは、声こそ明るいけど、遠くを見つめているような目で、何かとても胸を締めつけられた。


ひとみからの連絡がパッタリと途絶えてしまった。携帯電話にかけてみても連絡はとれないし、メールの返事も返ってこなかった。そして二週間ただひとみからの連絡を待つだけの日が過ぎた。思いきって彼女のマンションを訪ねることにした。彼女の部屋の扉から、下村の名前が外れていた。その時隣の部屋に住んでいるらしいおばさんが、帰ってきたので、ひとみの事を訪ねてみた。
「知らないの、あの子ね、亡くなったのよ。何でもね、あの子の働いていた店のバックについていた暴力団が、中国系のマフィアと抗争してて、店が襲撃されたんだって、それに巻き込まれてたらしいんだけど。ちょっと、あなた大丈夫」


その日はどうやって家に帰ってきたのか。とにかく次の日は出社できた。仕事に打ち込むことで、気を紛らわそうと努めた。その日も残業になり、深夜地下鉄の駅ににやって来ると、ひとみの言葉を思い出した。
「あの日、ホームで鉄郎君を見かけた時、なんかすごくホッとしたんだ、東京に出てきて以来、見る人見る物がみな、冷たい石のように思えていたから。そんな時に鉄郎君に出会ったら、故郷の暖かい夕日を思い出しちゃった」


ホームの蛍光灯はまだ、切れかかったままで、チカチカと瞬いている。取り換えていないのだろうか。フラフラと足を引きずっていると、人とぶつかってしまった。
「すいません」鉄郎は相手の顔を見た。男が三人、チンピラ風だった。
「なんだ、気持ち悪い野郎だな」
「オイッ、土下座しろよ、こっちはイライラしてんだ」
鉄郎はひとみのことを考えていた。
「こいつ、シカトしてんじゃねえぞ」三人は執拗に絡んできた。
こいつらだ、こいつらのようなやつらがひとみを殺したんだ。鉄郎は三人に飛びかかった。
男達は手加減も無く鉄郎を殴り、蹴り続けた。骨が砕け、口の中に血があふれてきた。薄れてゆく意識の中で、三人の逃げていく足音だけが聞こえた。
気がつくと鉄郎はさっきまで倒れていたはずの、ホームに立っていた。身体は傷だらけだ。時計を見ると二十四時を指していた。ガタンガタンと列車のやって来る音が聞こえてきた。音がだんだん近づいてくる。大きな風とともに青い列車が入ってきた。車内はとても明るくまぶしいくらいだ。列車は速度を落とし停車した。扉が開いた。
車内にはひとみが立っていた。ほほ笑んでいる。遠くを見るような悲しい目ではなく優しい目で鉄郎を見ていた。
鉄郎は列車に入った。足を引きずることなく入れた。ひとみを抱きしめた。胸が暖かかった。
扉は閉まり、列車は走り出した。

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2002/10/20