『見しらぬ犬』Miruz

見しらぬ犬

Miruz
月夜。とても静かだ。
先程から見もしらぬ犬が私のあとをついてくる。
片足をひきずりながらついてくる。萩原朔太郎の詩を思いだした。

 この見もしらぬ 犬が私のあとをついてくる、
 みすぼらしい、後足でびつこをひいてゐる不具(かたわ)の犬のかげだ。
 ああ、わたしはどこへ行くのか知らない、
 わたしのゆく道路の方角では、
 長屋の家根がべらべらと風にふかれてゐる、
 道ばたの陰気な空地では、
 ひからびた草の葉つぱがしなしなとほそくうごいて居る。

この日の夜は、なぜか月が蒼く光っているかのよう。
その薄蒼い光に照らされて、犬が見える。
私は歩き続ける。足取りは重い。
私は何をしているのだろう…
子供のころの記憶が甦ってきた。


まだ幼いころ、私は両親に連れられて、夜の遊園地に来ていた。昼間とは違い、きらびやかな照明を瞬かせている乗り物やアトラクションに、私は魅了された。観覧車やコーヒーカップに乗り、射的ゲームで遊び楽しんでいた。
父と母が、売店でポップコーンとドリンクを買っているときに、私の横を風船が通りすぎた。その風船はフクロウの形をした珍しいものだったため、私はふらりとスタンドを離れて、その風船を追いかけて行った。
しばらく走り、メリーゴーランドの近くまで追いかけてきたときに、目の前にピエロがあらわれて行く手をふさいだ。そのピエロは足が悪いらしく、片足をひきずって歩いていた。器用に玉投げをしていて、たくさんの数の玉を投げているように見えた。いったいいくつもの玉 を投げているのだろう、クルクルと回転し続ける玉に見入った。
しばらく投げ続けていたが、ピタッと手を止めた。手元を見たら、玉はたったの三つだけだった。ピエロは、黒いパンツとサスペンダーに白いワイシャツを着ていて、髪をオールバックになで付けていた。顔は青白く塗られていて、片方の目の下に、一滴の涙が描かれている。その青白い顔を見たとき、私はスーッと血の気が引いたのを覚えている。おばあちゃんが亡くなったとき、棺の中のおばあちゃんは、まるで眠っているように見えたのに、このピエロの顔は死んでいるような顔にしか見えなかったからだ。
でもまたピエロは動き出し、玉を投げ始めた。玉が無数に見えた。私はその時、両親とはぐれてしまったことに気が付いた。私には、ピエロの後ろでメリーゴーランドがすごい勢いで回転しているように見えた。地面がくらくらと揺れだしているように感じられ、視界に何色ものイルミネーションが飛び込んでくる。バンドネオンのBGMが逆回転を初め、頭の中に飛び込んできた。世界が狂ったように、グルグルとまわり始めた。
そのあとのことはよく覚えていない。気が付くと、涙でぐしゃぐしゃになり、震えながら母に抱きついていた。そして、あのピエロの顔とそこに描かれていた蒼い涙の滴が、妙に頭からはなれなかった。

 ああ、わたしはどこへ行くのか知らない、
 おほきな、いきもののやうな月が、ぼんやりと行手に浮んでゐる、
 さうして背後(うしろ)のさびしい往来では、
 犬のほそながい尻尾の先が地べたの上をひきずつて居る。

私は、行かなければならないところがある。だから、そこまで歩き続けなければならない。
振りむくとまだ、あの見知らぬ犬があとをついてきている。
しかし私にはその犬を振り切ることはできなかった。いつまで犬はついてくるのだろう。
高校時代のことを思いだしていた。


アスファルトに足のはり付く、うだるような暑い日の午後に、私は当時つきあっていた彼女に呼び出された。
最近彼女とはうまくいっていなかった。会うと彼女は上の空で、ケンカばかりするようになっていた。でも、私は彼女のことが好きでたまらなかった。
だから以前の様な仲に戻れるように、プレゼントを買っていった。小さなアメジストのピアスを買った。安物のピアスだったけど、彼女が浴衣を着たときにとても似合うと思って選んだのだ。
待ち合わせ場所に、偶然彼女は浴衣を着て現れた。とてもかわいかった。ショートカットの髪に、細く長いうなじが伸びていて、この世のどんな線よりも美しいと思った。
駅前のカフェに入ると、彼女はすぐに別れ話を切り出してきた。薄々予感はしていたとは言え、私は何も言えなかった。こんな時に何を言っても無駄 だと思う理性がそうさせたと、言うわけではない。頭だけでなく、心まで空っぽになってしまっていたのだ。それでも彼女は話し続けているようだった。
私は彼女の耳たぶを見つめていた。今日はピアスはつけていなかった。ただ、なぜかピアスの穴をずうっと見つめていた。かすかに見える耳の白い産毛が、その穴を中心に渦を巻いているように見えた。実際に見えたというより、そういうふうに見えただけだったのかも知れないけど。
彼女はまだしゃべっていた。お決まりの別れのセリフを並べていたのだろう。何となく、他に好きな男ができたのだなと思った。
私は黙ってピアスの穴を見続けていた。スーッとその穴に吸い込まれていくような感じがして、その時本当にこのまま吸い込まれたら、私は幸せになれるのだろうと思った。
「これから友達と、花火を見に行く約束があるから」そういって彼女は店を出ていった。
私も店を出て、あても無く歩いた。まだ太陽は街を照りつづけている。彼女に渡すはずだった、ピアスの袋を握りながら、私は夢遊病者の様に歩いた。
気が付くと、公園の噴水の前にきていた。握ったままのピアスの袋は破れていた。中を見てみると、どこに落としたのかピアスが片側だけ入っていた。
そのひとつのピアスを噴水の水たまりの中へ投げ込んだ。水の中でアメジストがやけにキラキラと、蒼い光を反射させているのが見えた。

 ああ、どこまでも、どこまでも、
 この見もしらぬ犬が私のあとをついてくる、
 きたならしい地べたを這ひまはつて、
 わたしの背後で後足をひきずつてゐる病気の犬だ、
 とほく、ながく、かなしげにおびえながら、
 さびしい空の月に向つて遠白く吠えるふしあはせの犬のかげだ。

私はまだ歩き続けた。
歩き続ければ、幸せにたどり続ける気がする。足はとても重かったけど、少しづつ歩き続けた。
まだ犬はついてくる。そして徐々に私との距離を縮めている。
また、ある記憶が甦ってきた。


私が大学生だったころの夏休みの話だ。毎年とある山中で、三日にわたって行われているロックフェスティバルに数人の友人達と出かけていた。
冬はスキー場になる広大な場所にいくつものステージが作られる。そんな自然に囲まれた所に、毎年三万人以上もの人が集まる、大ロックイベントだった。
大小いくつかある各ステージは細い林道で結ばれていて、片道だけでも十数分はかかる。会場がいかに大きいか想像できるだろう。そこで昼間何十組ものロックを中心としたバンドたちがプレイする。夢のような空間だ。
そんなロックフェスの一日目の夜だった。一通りのステージは終了して、後はダンスホールと化した大テント内において、オールナイトでDJが音楽をかけているのを残すのみ。他には、それぞれの空いたスペースに小さなDJブースを作ったり、ミニコンポで音楽を鳴らして踊っているもの、アコースティックギターで歌うものなどがチラホラ残るのみで、ほとんどの客は家路を急いだり、各宿泊施設に帰っていた。
私たちはテントスペースにテントを張り、そこに寝泊まりをすることになっていた。
友人達は一日はしゃいだ疲れで、テントの中で倒れていた。私はその日見たステージの興奮がまだ冷めず、どこかで面白いことをやっている場所はないかと、ひとりテントを抜け出し、ふらふらと会場をさまよい歩いていた。
夜も更けた頃、いつのまにか霧が立ち始めていて、遠くの照明がぼんやりと光って見え、まるで水中都市にいるようだった。
そんな、空間に酔いながら林道を歩いていると、チラホラと行き交っていた人たちもいなくなってきた。そろそろテントに引き返そうかなと思い始めた時、道から外れた林の向こうから青白い光が見えてきた。
そしてその方向から、ゆったりとしたテクノミュージックが流れていた。道沿いに流れる小川のせせらぎの音とその音楽が合わさり、とても心地よかった。
小川を渡らなければならなかったが、その場所に私は引き寄せられた。川を渡るとき、水はとても冷たく、体がしびれるようだった。
林を抜けるとそこには、インド風の衣装を身に着けた七八人の男女が踊っていた。
青い光の中で、ゆっくりと動きながら陶酔している。
そこだけ時間がゆっくりと流れているかのように、スローモーションみたいな動きで、踊っていた。
テクノミュージックの電子音が辺りを包み込み、単調だがいくつもの音色が立体的に、響き渡る。
しかし、違和感がそこにはあった。その違和感の原因は、すぐにわかった。彼ら全員片腕が無かったのだ。肩から無いもの、肘からないもの、様々だったが、皆一様に片方の腕がなかった。
私はその時、見てはならないものを見てしまったような後ろめたさを感じて、そこから逃げ出した。
あわてていたため、小川を渡る時、つまずいて転んでしまった。夏とはいえ山の夜は肌寒い。全身に川の水を浴びた瞬間、心臓が止まるかと思った。しかし心臓の鼓動は、さらに高鳴り、私はその場所を振り切るように走りだした。
テントに戻ると友人達はすでに、ぐっすり寝むっていた。私も服を着替えると、疲れが出て、そのまま寝入ってしまった。
翌朝、友人達に、夜中に見た片腕の集団の話をすると、
「途中でなんかやばいクスリでも買ったんじゃねーのか」と笑われた。
残りの二日間は何事も無く、私はロックフェスティバルを楽しんだ。でもひとりになる気には、しばらくなれなかった。あの、静かに身体をうごかし続ける集団をつつみこむ蒼い光が、頭に焼きついていた。


 見しらぬ犬は、すでに私のすぐ後ろまできている。
 犬からはなれようと、一生懸命に歩こうとしたが、もう足は動かない。
 私は、下を向いて自分の身体を見てみた。
 右足と右腕が血まみれになっている。
 血は私の血だ。骨も砕けてぼろぼろになっている。
 よく立っていられるものだなと思った。
 思い出した。今まで失われていた、直後の記憶が甦ってきた。
 私は先程、トラックに轢かれたのだった。
 トラックは、逃げるように走り去ってしまい、私はひとり取り残された。
 半身をタイヤに潰されてしまった私の頭に「病院へ行かなければ」という思いが浮かんだ。
 だから私は歩き始めたのだった。
 生きたかった。
 しかし、もう前には進めない。この先に見える灯のところまで行きたいのに、足が前に出なくなってしまった。
 すでに、足下まで犬はきていた。
 犬が始めて、こちらを向いた。
 犬と目が合った。
 その、にぶく光る蒼い目を見た時、私は無なる闇につつまれた。


引用詩「見しらぬ犬」萩原朔太郎 詩集『月に吠える』より
Unknown dog
2003/05/11初
2003/05/20改

月に吠える―萩原朔太郎詩集 (角川文庫)