『ペンギンの憂鬱』 アンドレイ・クルコフ/沼野恭子 新潮クレストブックス

1章〜33章(p105)まで。

ウクライナのロシア語作家によるウクライナが舞台の小説。
ウクライナについてはほとんど知識がない。先ず浮かぶのはサッカーのシェフチェンコだ。他に浮かぶものといったら、そのシェフチェンコがいたワールドカップウクライナ代表くらいだ。旧ソ連の国というと何故か映画『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』の旧東ドイツの映像と映画『グッバイ、レーニン!』のこれまた旧東ドイツの映像が浮かんでしまう。とてつもなく寒々しい町並みと、最小限のシンプルな家具とほとんど装飾のない寂れた部屋を思い浮かべながら最初は読んでいた。部屋の中は常に暗いし、昼間でさえ太陽が雲に覆われている。そんなイメージしか旧ソ連の国に対して抱けない自分の無知に改めて凹みました。
小説の中では今のところ寒い冬なので、そんなイメージでしたが、ウクライナは結構温暖だそうです。
ウクライナ@Wikipediaをサラッと読んだり、ウクライナ旅行で写真をチェックしておくと私のようなウクライナビギナーにはいいかも。
今日は33章(p105)まで読みました。
主人公ヴィクトルは、ウクライナの首都キエフに住む小説家だが、長編が書きたくとも長続きせず、いつも書いているのは短篇ばかり。恋人に去られ孤独な彼は動物園が飼えなくなったペンギンを一匹引き取って暮らしている。
ヴィクトルは新聞社「首都報知」に短篇描きとしての腕を見込まれて、まだ生きている要人や著名人が亡くなったときに掲載される予定の死亡記事を匿名で書く仕事を任される。ペンネームは「友人一同」だ。
ヴィクトルは孤独である。その孤独を紛らわせるためにミーシャという名のペンギンを飼うがこのミーシャは実は憂鬱症で病気だ。ペンギンはどんな行動も感情を表に出すこと無くするので、ミーシャの真意が見えることは無い。同じ部屋に孤独が二つ存在しているとヴィクトルは思っている。
そんなヴィクトルもにもセルゲイという警官の友人ができ、ひょんなことからソーニャという4才の女の子を預かることにもなる。
ヴィクトルが書いている死亡記事が原因でなにやら不穏な事件が起き始めている。ソーニャの父親もそれに巻き込まれているため娘をヴィクトルに預けたのだ。首都報知の編集長は危険だからしばらく身を隠せと言ってくるが何が起こっているかは詳しく話してくれない。
ヴィクトルとミーシャとソーニャはセルゲイの案内で内務省の別荘地に身を隠す。
と、ここまでが読んだあらすじ。私自身のウクライナに対するかなり偏ったイメージが作品に陰鬱なイメージを持たせているけどそれがとてもいい雰囲気だ。特にヴィクトルがハリコフという街に取材に行くと何やら不条理な事態が周りで怒っていくシーンなどとてもミステリアス。
しかし、そんな陰鬱な風景を思い浮かべていても登場人物たちはそれほど暗くはない。
物語がどう展開するかまださっぱりわからないけど、気になった文章をいくつかセレクト。

オーリャが何の理由も言わずに出ていってしまってから、何が変わっただろうか。今、隣にいるのはペンギンのミーシャ。無口だけれど、物思いにふけっているんだろうか。物思いってなんだろう。眼の表情を描写するためだけにある言葉なんじゃなかろうか。
ヴィクトルは前屈みになってペンギンの目を探し当て、じっと見つめて、物思いにふけっている気配があるかどうか探ろうとしたが、あるのは哀しみだけだった。
(p22)

ヴィクトルとミーシャの分かち合えない孤独。彼らが分かち合った瞬間から孤独ではなくなるのでしょう。

そうだ、清廉潔白で罪の無い人間なんていやしない。そうでなきゃ、追悼文も書かれずに目立たずに死んでいくだけだ。
(p87)

できれば自分も死ぬときは、ひっそりと目立たずに死んでいきたい。

ペンギンの心理は、たとえば犬や猫なんかに比べるとよっぽど複雑なんです。犬や猫より利口だし、なかなかなつかない。自分の感情や愛情を隠すことができるんです

この「自分の感情や愛情を隠すことができる」というのがこの小説の中で大事なポイントになってくるのではなかろうか? 逆の存在は4才の子供であるソーニャだ。またペンギンの隠された感情を見抜くことが出来るのはソーニャなのかもしれない。
ソーニャの父親がカギのかかっている部屋に痕跡も無く入り込んだりと、ちょっと観念的というかメタフィクションなにおいもし始めているが、どうなるの?
的外れな予想かもしれないが、続きが楽しみ。

ペンギンの憂鬱 (新潮クレスト・ブックス)