『ペンギンの憂鬱』 アンドレイ・クルコフ/沼野恭子 新潮クレストブックス

34章(p106)〜47章(p172)まで。

隠れて住んでいる別荘の近くで、盗みに入った泥棒が、家主の仕掛けていた地雷を踏んでしまい、身体がボロボロになって亡くなります。それを発見したパトロール中の兵士も野次馬たちもみなクールです。前回読んだ部分によると、朝外から銃声が聞こえたりしても結構なれている感じの登場人物たちですが、この地雷の被害者を見てもみな冷静なのはどこまで誇張なのでしょう? バラバラになった死体より、ヴィクトルのつれているペンギンにみな注目してしまいます。死体など無かったかのように。この場面はアイロニカルなシーンと読めばいいのか? それとも非現実的なことがまわりで起こっていると考えればいいのか少し迷った。前者でしょうけどね。
ペンギンの飼育係だった老人のピドパールィは癌で、余命幾ばくもないそうな。髭面のまま死にたくないピドパールィの髭をヴィクトルが剃ってあげるシーンがいいですね。剃り傷にオーデコロンがしみたとき、「痛いってことは、つまり生きているって証拠だから」と言っていた。どこかで聞いたセリフだなと思って考えたら、この前観た映画『ワールド・トレード・センター』の中の瓦礫の下に生き埋めになった警官たちのセリフと同じですね。もともと映画の中でも映画『G.I.ジェーン』の中のセリフだって言ってました。
編集長も命をねらわれているらしく、ヴィクトルの家に駆け込んで来た。ローマに高飛びするらしい。このことがきっかけで偶然編集長の金庫にしまってあった自分の死亡記事原稿見つけるが、それにはこれから先の日付が記入されてサインと「決済」が書かれている。どういうことなのか? 編集長の裏にも誰やら指示を出している人がいるらしい。ミステリーな展開になって来た。
ヴィクトルはソーニャのベビーシッターとして雇ったニーナのことが気になり始めていますね。ヴィクトル、ペンギンのマーシャ、ソーニャ、ニーナで家族を作ること夢見ています。この小説の展開ではそんなハッピーエンドにはならないでしょうけど。
今回気になったセリフ。

どういう状態を「正常」と呼ぶかは、時代が変われば違ってくる。以前は恐ろしいと思われたことが、今では普通になっている。つまり、人間は余計な心配をしなくていいよう、依然恐ろしいと思ったことも「正常」だと考えて生活するようになるのだ。だれにとっても、そう、自分にとっても、大事なのは生き残るということ。どんなことがあっても生きていくということだ。

「どんなことがあっても生きていくということだ」という言葉がのしかかる。

ペンギンの憂鬱 (新潮クレスト・ブックス)